更新日:令和4年3月19日|40分ほど|体力★★☆☆☆・展望★★☆☆☆・静けさ★★★★☆・技術★☆☆☆☆・危険度★☆☆☆☆・初心者向け|信長や道元、芭蕉など数々の偉人に天皇巡幸に利用し、古代北陸道の通る道となった難所で1200年まえから実在する街道です。秀吉から頂いた金の茶釜や不動明王なども鑑賞することが出来る歴史を感じる旅となっております。
◆都道府県:福井県
◆登山日:2003年5月13日
◆同行者:石井さん・田中さん
古来より、木の芽峠は北陸道の要衝として、人馬の往還も極めて頻繁であった。
峠を越えて京都に向かう人、さらに、都を出て北陸に下向する人々にとって、
急坂の石畳の道、茅葺の茶屋の印象は、旅人を事のほか忘れ難いものにしたであろう。
京都の徳本さんご夫妻の企画に依り、能郷白山に登った帰途に訪れた峠である。
今庄の郷で美味しい蕎麦を食して、北国街道から別れ板取から古道の北陸道へと入り、今庄365スキー場に到着。
ゲレンデを登ること数分で、山野草を収穫していた峠茶屋の主に徳本さんが大きな声で来訪の挨拶を告げた。
古の時代が語りかける古道は、平安時代に開削された官道で、
道元禅師や蓮如上人、親鸞上人、新田義貞、信長、秀吉らの戦国武将。
江戸時代の松尾芭天狗党の武田耕雲斎、そして明治天皇も北陸巡幸の折に、
峠の石畳を踏んで通った道であった。
先ず本尊が石仏で弘法大師の作といわれる言奈地蔵尊に参り。
(その昔権六という馬子が旅人を殺し金品を奪った、見ていた地蔵に「地蔵言うなよ」と言った)
そして1253年の夏に、永平寺を開山した道元禅師が、病気療養のため、
高弟の孤雲和尚、徹通和尚を伴い、永平寺を発たれた。
やがて木の芽峠に至り、禅師は京への随伴を切望される徹通和尚に爾後の永平寺の守護の大事を説かれ、
涙ながらの決別をされた時の詠が、「草の葉にかどでせる身の木の芽山雲に路ある心地こそすれ」
その折の禅師の万感の思いが込められ、再び、峠を越えることもなく、
今生の永別となるやも知れず、峠の背を分けて流れる水の如く、
南と北に袂を分けられた師弟の胸中は、誠に感慨無量なるものがあったであろう。
と記された禅師の決別の碑と両脇の孤雲・徹通和尚の碑に詣で、辺りを散策して峠の茶屋に入った。
茶屋は1601年建立の本屋(母屋)と広い座間(座敷)、
玉座から成る木造茅葺きの平屋で大きな囲炉裏を設えていた。
当主 前川永運氏と名刺の交換。
出羽の守 平維衡より四十三代士族と記されていた。
前川氏の案内で秀吉から頂いた黄金の茶釜や陣中釜、
戦国時代の槍や太刀、不動明王等々の説明を受けた。
それにしても、囲炉裏上の天笠に付着する煙炭には積み重ねた時代を思う。
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